特別企画戦争・12歳・平和(其の3)           オクロちゃん        

 

 昭和20年5月25日、空襲の晩のこと。我が家は幸いにして焼け残ったが、一帯の人々は自宅の防空壕び出して近くの神社の大きな横穴式の防空壕へ 逃げ込んだ。あの夜空を今でも覚えている。金銀の薄紙がパラパラと花火の欠片の様に落ちて来て、昼間のような明るさで、落下して来る無数の物体が焼夷弾と 知ったが、何処へ逃げてよいのか分からない状態だった。ーー先日のニュースで、そのまま放置されていた横穴に子供達が数人入り込み、ガス中毒で死亡した ことを知った。戦争を知らない彼等には何の穴か想像も出来なかったことだろう。 

 私達家族はこの空襲に吃驚して二、三日内に身の回り品だけを持って、群馬県松井田駅から歩いて1里(4km)の妙義山麓の農家に疎開した。上野駅から 赤羽まで一面の焼け野原。赤く錆びた鉄骨の残骸のみが目に映った。当地の高崎高女に入学が決まったが、疎開者が多数で暫くは転入ができず、近くを流れる 碓井川の清流に足を浸したり、珍しい吊り橋を行ったり来たりして遊び、夜は、東京では空襲に備えて服のまま床に就き、空襲があれば起きて防空壕へという 生活だったので、とてものんびりとした時間を過ごすことが出来た。

 間もなく転入を許され、学校へ片道1時間歩き、汽車で亦1時間北高崎の学校へ通い出した。この学校も県立のため全くの軍国主義で、常に頭に"必勝"の 2文字を書き入れた鉢巻を締めて授業を受け、朝礼は裸足で校庭に立ち、藁人形を米兵に見立て、長刀で「突き!」と大声で叫んで突く練習をする。米兵が 襲って来たら、こうして迎え撃てということらしい。恐らく日本は負けるので、米兵が上陸して来る事を既に想定していたのだろう。然う斯うするうちに高 崎も空襲の洗礼を受け、ある朝、北高崎の駅から学校へ向かうと、見覚えのある校舎が見えない。爆風で飛ばされて、周りの民家も爆弾で粉々になっていたのだ 。

 昭和20年8月15日、戦争は終わった。平和になった筈である。しかし、平和という2文字について考えると、これほど定義するのが難しい言葉はない。それは戦争の反対語であるが、戦争終結から今日までを振り返ると複 雑な気持ちになる。私達は、戦後の物資不足や混乱の中を戦争中よりも酷い食糧・住宅難に苦しみながら必死で働き、経済の復興を遂げた。しかし、それが行 き過ぎて異常なバブル現象を生み、破綻を見たわけである。その揚句多くの家庭の平和は壊され、一家離散の憂目に会った人 imageも少なくない。

 今改めて「平和」について問われれば、長い間忘れていた戦中戦後の苦しさや、世界各地で繰り広げられている惨憺たる民族紛争の事をも考えてしまう。現 在の日本は、以前よりは物騒になっているにせよ、夜はパジャマを着て就寝できるし、毎晩空襲警報で起こされて防空壕に飛び込む事もなく、毎日の食事にも 不自由せず、空からの機銃掃射に脅えないで歩けるだけでも平和だとは思う。それが昭和8年生れの私の実感である。そして、日本が二度と悲惨な爪痕を残す 戦争に巻き込まれる事の無い様にと祈り願うばかりである。 

 

◇オクロちゃん・・・1933年東京生れ。大学でフランス文学を専攻し、
1955年卒後は神戸でエール・リキッド、東京で日仏貿易に通算35年勤務。
キャリア・ウーマンの草分け的存在。引退後は、ワインとテニスを愉しむ平和な日々。


 


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