特別企画「戦争・12歳・平和(其の1)」 オクロちゃん
私は昭和8年生れの72歳。終戦の年の3月に国民小学校(入学時は尋常小学校)を卒業した。多分、子供であっても戦時中の本土の生活を辛うじて記憶して いる最後の年代かもしれない。
小学校の低学年(昭和14、15年)は比較的静かに恵まれた日々を過ごせた。 毎夏鎌倉に家を借りて、夏休みを海辺で過ごしたものだ。亦、現代のように車 が通ることが無かったので、道路で石蹴りをしたり、ベーゴマ、めんこ、縄跳びなど素朴な遊びに興じる事も出来た。だが、3年生になると少しずつ戦争の色 が濃くなる。小学生でもツーツトツーツーなど無線信号や、手旗信号を学ぶようになった。
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まった。男は警防団服に身を包み、女はもんぺ姿で白い割烹着に襷(たすき)がけで防火演習をしたり、路面電車の脇の建物は 空襲時の目標になり易いということで、柱に綱を括り付け、皆で力を合わせて引張って壊したりした。母が病弱だったため、12歳の私が一家を代表してこの 作業に加わった。各家庭では庭に防空壕を掘り、防火用水を貯え、ガラス窓にはX印に紙を張って爆風避けとし、電気は、灯りが外に漏れて空襲の目標になら ないよう黒い布で囲み、敵機襲来に備えた。
一時期は日本も戦勝気分で提灯行列をして祝ったりしたが、程なく日本は負け戦に転じ、◯◯で玉砕(戦争に負けた場合、生き恥を晒さずに全員が潔く死ぬ 事)との声を聞く。物資は瞬く間に不足し、"欲しがりません勝つまでは”の標語の下にもの凄い倹約生活を強いられた。例えばゴム(南洋で採れる)が不足し、ゴムマリも配給で、しかも20人に対して1個しかない。運動靴もしかり。今の皆様には信じられない事と思う。
そのうち段々東京は危険ということで、小学生は親元を離れ学童疎開という措置が取られる。6年生は1クラスを残して新潟のお寺へ疎開をしていった。そこ での生活は悲惨なものであった様だ。東京に残った私達は、毎朝10時頃の警戒警報で教室を出て校庭に集まり、その頃既に始まっていた給食の蒸しパンを貰 うと慌しく家路に着くのだった。やがて学校の授業が廃止になった。そして遂に3月の卒業式も……。私が卒業証書を受け取ったのは、何十年も後のことだっ た。
◇オクロちゃん・・・1933年東京生れ。大学でフランス文学を専攻し、
1955年卒後は神戸でエール・リキッド、東京で日仏貿易に通算35年勤務。
キャリア・ウーマンの草分け的存在。引退後は、ワインとテニスを愉しむ平和な日々。
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