特別企画戦争・12歳・平和(其の2)           オクロちゃん        

 

 進学の春が来た。当時は都立全盛で、私立に入るのは以ての外という雰囲気であった。都立高等女学校や中学校に入学する者達は、学区制度で3校の中から 選ぶ事になっていたが、入学試験は中止された。しかし、幸運にも私は、苦手な体育に力を入れている超軍国主義の都立高等女学校(都立高女)に入学する事が出来た。昭和20年4月空襲が激しくなって来た頃である。ちなみに、この学校には東条英機のお嬢さん方がいらした。

 その頃玉電と呼んでいた今の東急世田谷線が渋谷から三軒茶屋で二つに分かれ、一方は image二子玉川、他方は下高井戸へと路面を走っていた。今は無い二子玉川方面は、現在の "ニコタマ" からは想像出来ないほどの田舎だった。そこにはやがてオリンピックの為に246道路が建設され、二子玉川線は現在田園都市線として地下に潜っている。 

 登校時に二子玉川線の桜新町駅を降りると、順序よく10人か20人で2列に纏まり、1番先頭右端の人が号令を掛け、桜並木を10分程畑の真ん中の学校 に向かう。今のサザエさん美術館※の前を通り、軍人のように歩く。途中、先生が通られると、「敬礼!」の掛け声で軍隊式敬礼をする。 「歩調止まれ!」 の号令で学校に着くと、朝礼が始まる。女子だけの学校だが、軍人勅諭を全員一斉に直立不動の姿勢で大声で唱える。亦、校庭には沢山の防空壕が掘られていて、空襲警報のサイレンが鳴るとそこへ飛び込む。桜の木の下にある壕の中へは大きな毛虫が一杯落ちてきたっけ......。亦、警戒警報だと時間的に余裕があって、 先生に「10分以内で歩いて帰れる人!」と言われると、優に30分は掛るのに手を上げ、走って帰路に着いた。しかし、このようにして下校途中に敵機の機 銃掃射に遭い、亡くなった友もいた。 

 学校では殆ど授業もなく、校舎の一部は軍需工場になっていて上級生は火薬造りをしていた。私達1年生が入学して初めてのお裁縫の授業では、先ず自分た ちが身につける特殊な形をしたボタン付ゲートル※を製作させられた。私達の当時の服装はもんぺの上からこのゲートルを着け、地味な上着を羽織り、防空頭巾を片一方 の肩に斜めに掛け、もう一方の肩には干飯(ご飯を干してカラカラにしたもの、非常食用)の入った鞄を掛けるという風だった。5月末になって、それまでは比較的郊外のために戦火を逃れていた世田谷界隈も空襲を受け、学校の校庭に11発の不発焼夷弾が、我が家の前の三叉路にも 1発の不発弾が落ちた。道一杯にすり鉢状の直径7,8メートル、深さ3メートル位の穴が空き、どす黒い油の真ん中に一本の不発焼夷弾が不気味に立ってい たのを覚えている。 


※サザエさん美術館 長谷川町子美術館(世田谷区桜新町)のこと。

※ ゲートル 写真をクリックすると拡大します。前列の生徒と先生が着けている脚絆(きゃはん)のようなもの。ボタン付きの特製でした。オクロちゃんにとっ て、当時の写真はこの一枚だけだそうです。写真の裏には「昭和20年5月 戦争中の徒ならぬ空襲の最中で皆が硬くなっています」との注が書かれているとのこと。

 

◇オクロちゃん・・・1933年東京生れ。大学でフランス文学を専攻し、
1955年卒後は神戸でエール・リキッド、東京で日仏貿易に通算35年勤務。
キャリア・ウーマンの草分け的存在。引退後は、ワインとテニスを愉しむ平和な日々。


 


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